ナマステ〜、インド的生活を送るSattva-Kenです。
普段からシンプルで物に頼らない生活を心掛けています。
テレビや電子レンジも無く、外食はせず自炊で質素に、ベッドではなく布団で、お湯ではなく水でシャワーしてます。(12月〜3月はお湯を使います。)
その他、毎朝の神様の礼拝とヨーガの実践、娯楽はマントラを聴くか瞑想をするなど、極力インドに近い生活を送っています。
多少の不便に生を感じ、そんな時こそ本領を発揮するというのが持論です。
このコロナ禍の1年間で、ステイホームという言葉が定着し、移動や外出などの人流制限によって日本全体で約20兆円が強制的に貯蓄されたというニュースがありましたが、その支出は本当に必要だったのでしょうか?
これまでの生活を見直し、今後はさらにミニマリストが増えていくかもしれませんね。
さて本日は、久しぶりのムーンデー以外の投稿となるので、原点に還り『YOGAとは?』についてご紹介したいと思います。
始めにYOGAは”ヨーガ”と発音するのが正しいです。ここでの記事も、エクササイズなど身体的な要素の”ヨガ”と瞑想や精神面、自己観察の”ヨーガ”を微妙に使い分けています。
そもそもYOGAとは何でしょうか?
体と心と魂を一つにすること。頭の中を整理すること。自分自身の理解を深めること。無になること。悟ること。私と神が一つになること。などなど、それぞれのYOGAの捉え方があり、どれも間違いではありません。
一般的にYOGAとは「結合」、「合一」という意味で訳されます。
正確には「牛馬に”くびき”をつけて車につなぐ」という意味のyuj(ユジュ)という語源から派生した名詞で「結びつける」という意味であるとされています。
「軛(くびき)」を意味する英語yokeの語源とされ、暴走する牛馬を人間の心に喩え、それを一点に繋ぎ止め制御することがYOGAというわけです。
「バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教の聖典の一つ)」の教えでは、全ての現象の根底には、至高の存在(ブラフマン)があり、その深遠な真実と自分(アートマン)を結びつけること、あるいは交わり一つになること(梵我一如)を意味します。
この「結合」の意味と捉える経典や瞑想体系のことを非二元論または一元論とされます。(ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターなど)
さらにこの「結びつける」から派生して、「乗り物、実施、適用、手段、方策、策略、魔術、合一、接触、結合、集中、努力、心の統一、瞑想、静慮(じょうりょ)」という意味があるそうです。
具体的な結びつけから抽象的な結びつけまで広い意味で使われるようになり、さらに心と対象との結びつきを意味するようになったと考えられています。
そしてYOGAのもう一つの語源として、yujir samadbauという「熟慮(じっくり考えること)」や「専心」という意味があり、ヨーガの経典の「ヨーガ・スートラ」では、こちらの意味でYOGAという言葉が使われています。
本来の私たちの純粋な意識(プルシャ)と宇宙が現れる前の根本原質(プラクリティ)という、2つの異なるものが存在すると考えられ、それらを深いサマーディの境地で熟慮あるいは専心して区別することがYOGAであるとされています。
先ほどとは反対に、このような意味で捉える経典や瞑想体系を非一元論または二元論とされます。(サーンキャ哲学、ヨーガ・スートラなど)
どちらの意味で用いてもYOGAとは、本来の自分自身の存在に還る(気づく)ための行法であり、その機会は体や心、呼吸を通じて私達の生活のあらゆる所で見ることができます。
現在では、身体的なエクササイズによって若く、美しく、健康になるイメージが強いですが、YOGAは元々、宗教的な救済を目的としたもので、一部の出家者や限られたカースト(バラモン)が取り組んでいました。
彼らは、心身、感覚器官を鍛錬によって制御し精神を統一して、心の働きを完全に停止(止滅)させて自己に気づき、輪廻転生の流れからのモクシャ(解脱)に至ろうとしました。
そして、あのブッダも出家した後、二人の瞑想マスターのもとでYOGAを学び、禅定(サマーディ)を習得したと言われています。
ブッダはその後、それらの瞑想体系に改良を加え、普遍的な解脱への道を一般大衆に広めたとされています。
インド的・仏教的な伝統においては、悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法自体と、その世界をトータルに表す言葉として「YOGA」があり、密教の手法を含めた瞑想法、念仏、唱題、座禅など、仏教の行のすべてはYOGAの範疇に入るとしています。
そしてYOGAの体系は時代とともに変化して、今日まで受け継がれてきました。
誰もが”自由を獲得することができる”まで一般に広まったYOGAですが、同時に多くの智慧も失われたに違いありません。
現在私たちが学ぶことのできるYOGAはほんの一角に過ぎませんが、それでもこうして歴史と伝統のある聖なる道を歩むことが出来るのは、偉大なる先人達が残した功績があったからです。
繰り返しになりますが、マットの上だけがYOGAではなく、私達の生活全てにYOGAを見ることが出来ます。
したがって”YOGAに行く”や”YOGAをする”という使い方よりも、”YOGAのある生活”や”YOGA的な観点”というように、常にYOGAが身近にあることが前提での使い方が妥当だと思います。
SattvaYogaShalaでは、YOGAのポーズ以外にも生活全般でYOGAと繋がり、自らが今後の人生をより豊かなものへと変えていけるようなSattva的YOGA指導をしています。
私達の輪廻は30兆回繰り返すとされ、YOGAの道は真っ直ぐ進んで100万年かかると言われています。
途方もない数ではありますが、焦らず地道に根気よく精進していきたいです。
最後までお読みいただき有難うございます。
今後もこのようなテーマを細分化して、Sattva-Kenなりの解釈でお伝えしていきたいと思います。
PS:YOGAに出会ったのは2009年8月ブラジルにて。12年間続けてきて現在37歳。さすがに12年前は若かったと思うし、今後はさらに歳を重ねるにつれて衰えを受け入れていかなければなりません。。。しかし、YOGAでいうとこれからが本当のお・た・の・し・み!
写真はYOGAに出会う以前、2008年オーストラリアにて。