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ナマステ〜、yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥのSattva-Kenです。
これはヨーガ・スートラ(ヨーガの経典)の第1章2節の文で、195節あるスートラの中で一番有名な部分でもあります。
意味は「ヨーガとは、心の働きを止滅することである。」で、これがヨーガの定義になります。
パタンジャリは始めにヨーガを定義して、以降の節でその解説をしています。
ヨガって何?って聞かれた時のシンプルな回答はこれですね。

さて、本日はそんな心の止滅をするためのヨーガの目指す境地、「サマーディ」についてみていきたいと思います。

サマーディ。この記事でも何度か使っていますが、直訳すると”三昧”となります。パタンジャリヨーガ・スートラの八支則の最終段階です。
難しいヨーガの専門用語を並べて簡潔に説明するのは容易ですが、それを理解するためにはある程度の知識が必要になります。
ここでは、ヨーガの知識がない方でもなるべく理解してもらえるように、解説していきます。
では、その”三昧”をウィキペディアで調べてみたところ、

『サマーディの音写である三昧(さんまい、サンスクリット語: समाधि, ラテン文字転写: samādhi)は、仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。
サマーディの語は「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる。
仏教における三昧の同義語・類義語は定。』

要するに曇りなき心の瞑想状態のことですね。
次はその”定”を調べてみたところ、

『定(じょう)、サマーディ(巴、梵: samādhi)は、仏教用語で、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す。
また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という。
定すなわち三昧は、仏教の三学である戒・定・慧の一つであって、仏教の実践道の大綱である。』

とあります。ここでは、心の平静が保たれた状態と、それに至る瞑想修行のことも含まれていますね。
そしてその修行こそが日々の実践の核となる。
古典ヨーガでもヨーガとサマーディは同義で使われるなど、この辺の考えや目的、手段はヨーガでも共通してますね。
私にとってヨーガ(教)、ヒンドゥー教、仏教は兄弟のようなものとして捉えています。
ヨーガ哲学を勉強するのに、仏教やヒンドゥー教の本を開いて参考にするように、それぞれの教えが補完しあって私の知識と経験が成り立っています。

話をサマーディに戻します。
次にヨーガにおける三昧についての紹介があります。

『ヨーガ・スートラでは、三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される。ヨーガ・スートラでは以下のように、「有想(うそう)三昧」と「無想(むそう)三昧」(第1章17-18節)、「有種子(うしゅし)三昧」と「無種子(むしゅし)三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている。

・有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)
尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミター)の意識対象が伴っている三昧。

・無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)
行(サンスカーラ)だけが残っている三昧。

・有種子三昧(サビージャ・サマーディ)
心の対象が残っている三昧。ヨーガスートラに述べられる定(サマーパティ)の種類には有尋定(うじんじょう、サヴィタルカ・サマーパティ)、無尋定(むじんじょう、ニルヴィタルカ・サマーパティ)、有伺定(うしじょう、サヴィチャーラ・サマーパティ)、無伺定(むしじょう、ニルヴィチャーラ・サマーパティ)がある。

・無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)
真智(直感智)さえも止まり、すべての心作用が止滅した時に生じる三昧。』

とあります。
少し難しくなってきましたが、サマーディの状態にも大きく分けて2種類あると言っています。
心にサンスカーラ(潜在印象)の種が残っている状態か、焼き尽くされて意識のみが存在する状態の2つ。

種類の説明の前に、もう少し具体的にサマーディの状態について、みていきましょう。
サマーディは瞑想によって体験されるものです。瞑想する時には、瞑想する対象となるものを絞り、それに心の焦点を向けます。
心が十分な制御下に置かれ、焦点の合った心でその対象を観想すると、瞬間的に対象の内奥を貫き、その理解は微細な分子レベルにまで至ります。
完全に統御された心で対象に集中することで、対象についての全知識が得られる状態がサマーディです。
仕事やスポーツなどで集中力が極限まで高まり、目の前のことに集中し高いパフォーマンスを発揮することを”ゾーンに入る”という表現をしますが、これは一時的にサマーディに近い状態になっていると言えます。
また、功績を残した発明家も物質的なサマーディを経験していたとされています。

そしてその瞑想の対象は粗雑なものから始め、微細なものから自己へと、段階を追って進んでいきます。
サマーディの種類を段階を追ってみていきます。

・サヴィタルカ・サマーディ(有尋三昧)・・・肉体や呼吸など粗雑で具体的な対象で得た瞑想状態のこと。このサマーディでは、物質が対象となるため、比較的意識を向けやすく、誰にでも行うことができる実践修行です。

・サヴィチャーラ・サマーディ(有伺三昧)・・・タンマートラ(唯)と呼ばれる、音や心臓のチャクラ、愛や美など微細で抽象的な対象に観想すること。一つ前の具象の観想が成し遂げられたならば、その心は具象なくして抽象を理解する能力を得て、時間や空間をも超越する。

・サアーナンダ・サマーディ(有楽三昧)・・・識別や反射のない、より精妙な対象である心に観想すること。”至福のサマーディ”とも呼ばれる中で、ただただ歓喜を得る。そこには喜びの他は何もない。

・サアスミター・サマーディ(有我想三昧)・・・”私〜であること”に観想すること。そこには歓喜さえもなく、ただ個の意識があるだけで、それ以外の何ものも意識しないが、心の奥底にはサンスカーラ(潜在印象)が残っている。

・アサンプラジュニャータ・サマーディ(無想三昧)・・・前述4つの段階を経て、さらに我ー意識もなく、過去の印象の種子も無害化された状態。相応の機会を待っている心の奥底の潜在印象もなく、個は完全に解放され、再び現世に戻って翻弄を受けることがなくなる。

サンプラジュニャータ・サマーディ(種子のある三昧)を繰り返し経験することで、心の活動は弱まっていきます。普段私たちは心が活動を続けるように、無意識に心に栄養(興味、執着、エゴなど)を与えています。
ヨギーは、その行為とは反対に心に活動の機会を与えません。
それが一定期間続くと、過去に撒いた行為の種(潜在印象)もやがては枯れていきます。
そうなることで、個は世界が顕現される前の純粋な意識と一つになり、絶対的な”知る者”(神)と一体になると言われています。

私たちのこの存在は30兆回生まれ変わるといわれ、そもそもこの生まれ変わる輪廻転生が苦悩の始まりとされていますが、こうして本来の姿にとどまることで、その流れを越えて悟ることが出来る(解脱する)のです。
そして私たちはこれを目指しています。

想像するだけでも長く険しい道ですが、それでも偉大なる先人たちがこうして私たちが歩む道を照らしてくれています。
ヨーガの目的を今一度理解して、今後の人生を進んでいきましょう。ちなみに今世で成就しなかったとしても、次の生でもその智慧のカルマが引き継がれるそうです。
地道に日々の経験から学びを得て、いつしか救済される時まで、諦めずに続けていきましょう。

SattvaYogaShalaでは、レッスンの終わりや呼吸と瞑想のクラス、インド哲学研究会などで、こういった本当のヨーガについても触れています。
その中では、たとえ肉体的な変化が目的のヨガでも、それを達成に導いていきます。
Sattvaに通っている生徒さんで、先日試験に合格したとの報告がありました。それも日々のヨガを続けていたから合格できたのだと、本人が確信しながら話されていました。
なんとも嬉しい報告です。
大人でありながら成長できるSattvaYogaShala、あなたも始めてみませんか。

2010年初めてのヴィパッサナー瞑想コースを終えた後の坊主。

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